2026.04.30
多様な追悼の形 ――竹内公太 TEA+ 滞在レポート
滞在期間:2025年9月27日~12月10日

左鎮老君祠(台南市左鎮区)、ビデオレポート: 『1895年からの残響 (Echoes from 1895)』より。
私はTEA+での台湾滞在に際して、過去の日本による侵略と占領の記憶を由来に持つ台湾の地域に根差した民間習俗を見ることを主なテーマとし、抗日蜂起や住民殺戮に関係するいくつかの廟、祠ほこら、追悼の場や、事件の現場を訪ね、それらをビデオレポートとしてまとめた。滞在の終盤には「忠義」という概念を巡る考察を軸に、スタジオで映像インスタレーションを試みた。
關渡美術館の蘇孟鴻(Meng-Hung SU)館長が進行・レスポンダントとなるクラスで、10月14日に大学講義室で「記憶と場所」というタイトルでプレゼンテーションを行った。また12月4日から6日のオープンスタジオでは、初日にトークセッションを行った。
民間信仰に刻まれた抗日の記憶
台湾には1895年から1945年にかけての日本軍による侵攻・占領時代に犠牲となった民間人や義勇兵を祀り、追悼する廟が点在している。政府による公式の慰霊施設や、各地の資料館やモニュメント、近代的な公園施設などもあるが、私は民間信仰として人々の記憶に根付いた例を優先的に訪問することにした。
このテーマは台湾の「義民信仰」や「陰廟(いんびょう)」といった文化的慣行と密接に関連している。「義民信仰」とは、外敵に抵抗して命を落とした住民・義勇兵を「義民」として祀る台湾の民間信仰であり、「義民廟」や「忠義廟」は地域共同体の記憶と守護の象徴として受け継がれている。「陰廟」は無縁仏や水難死・戦死者など供養する人のいない「孤魂(ここん)」を祀る場で、災厄を鎮める性格をもつ。地域によっては、日本軍侵略期の犠牲者や抗日義勇兵を祀る例がある。
こうした廟はその由来が廟内の掲示や言い伝えから明確なため、「日本軍侵略の記憶と痕跡が文化的な風景の中に如何に持続しているか」を見ることができた。廟や祠の規模や様式に違いはあるものの、台湾で変化し独自の発展を遂げた漢文化由来の事例といえる。私は10か所ほどの廟や祠を訪問し、建築や祭壇の様子を撮影した。
霧社事件の追悼式典
一方、日本軍による侵略については多くの台湾原住民(台湾で一般的に用いられる、先住民族を指す呼称)にも甚大な犠牲を強いた。しかし、漢文化の廟のような慰霊や追悼が明示的な事例を、台湾原住民の伝統的な文化表象の中に探すことは容易ではない。台湾原住民族の霊魂観には、祖先の霊を敬い祈る「祖霊信仰」があることが多いが、その祭祀は主に共同体の継続性や祖霊との関係を維持するためのものであり、近代以降の戦争による大量殺戮や戦死者を公的に弔う儀式とは、基本的にその性質が異なる。
そうした中でも、南投県仁愛郷では霧社事件(1930年の抗日蜂起事件。その後日本軍による報復殺戮、強制移住政策や弾圧が続いた)の記念式典が毎年10月27日に開催されている。この式典ではセデック族の伝統的な衣装を身に着けた子供たちや年長者たちによる演舞・歌唱がある。これは原住民族の伝統的な信仰や風習のスタイルが日本軍による侵略の犠牲者への追悼の意思として捧げられる事例と言える。
この追悼式典や公園は、国民党政府の意向のもと、漢民族由来の文化や近隣に教会のあるキリスト教の要素が混成されているとして、その背景にある政治的な思惑を含めた批判が従来からあった。私は式典で会った日本人研究者と立ち話をして、例えば抗日英雄とされるモーナ・ルダオの遺骨がこの象徴的な公園に埋葬されたが、彼の遺骨は彼の故郷や、彼の同胞のうち生き残った人々が強制移住させられた土地である清流部落(旧・川中島部落)に返還すべきではないかという意見もあることを教えられた。蜂起した集団の子孫たちは、現在も清流部落から記念公園まで35km離れた山中を大型バスで移動せざるを得ない。
私はこの式典も時代に合わせて少しずつ変化しているのではないかという印象を持った。私が見学した2025年の式典では少なくともキリスト教の讃美歌のようなものは聞かれなかったし、原住民族文化としてのパフォーマンスが3演目あり、その他は代表者スピーチだった。スピーチのうちの一人は、セデック族の言葉だった。ただ、記念公園は近代的な造りで、また漢式の門が設えられている。
「純度」という偏見を越えて
異なる文化形態が混交する追悼の場をどう捉えるべきか考える中で、私は文化の中に「固有性」や「純度」のようなものを見い出し優先しようとする自らの偏見や先入観を反省することとなった。
そして霧社事件の場合、蜂起したグループの人口は日本の報復殺戮、別の土地への強制移住と苛烈な弾圧の末、6分の1以下にまで激減した。大量の遺体は日本軍によって処理されたし、死者への伝統的葬法も日本によって改変・制限されたという。追悼形式の文化的差異を検討するどころの話ではなく、民族や文化そのものが消滅の危機に瀕した。
戦後に培われ現代に続く記念公園と年次式典は、この歴史的文脈で理解せねばならない。これらは、変動する政治体制と歴史的状況の中、過去を記憶するための儀式を再構築する方法を模索する長期的な過程の一部と捉えることもできるかもしれない。いずれにせよ、追悼や侵略がもたらす不可逆的な破壊について、私は自信の認識不足を省みることとなった。
台南市左鎮区にある「老君祠」は稀有な事例かもしれない。漢式の廟でありながら阿立祖(アリゾ)信仰の要素を含み、かつ「抗日烈士」を祀っている。この場所と関りのあるタパニー事件(1915年の抗日蜂起および日本側からの報復逮捕と処刑)は、近年の研究では少なくない平埔(ピンプー)族の犠牲者(主にタイボアン族)がいたと考えられている。
苗栗県南庄区にある南庄事件(1902年、 サイシャット族やアタヤル族による抗日蜂起)関連の犠牲者を埋葬した「萬善爺義塚」は、原住民の犠牲者を悼む場だが、部分的に漢民族文化由来の形式も備えていると感じた(「萬善爺」は漢民族の陰廟文化において無辜の魂を祀る総称的な神格を意味する)。前述の霧社事件記念公園に加えて、これらの場所も台湾原住民の犠牲者への追悼を含む文化的に混交された事例と捉えて、訪問と撮影をした。
盗まれる「忠」
ところで、台湾には政府から公式に認められていない先住民族グループもいる。2025年10月には「平埔原住民族群身分法」が制定され、近年も少しずつ未認定部族の権利回復運動が進展を見せているように見受けられる。この問題の原因の一つには「平埔族の文化は漢民族文化と融合したために消失した」とする誤解・偏見があるということを、関連するドキュメンタリー映画を見るなどして学んだ。
漢文化様式の廟の中には、原住民文化の要素が残っている事例がある。いくつかの台湾民間信仰の廟には「阿立祖信仰」(平埔族とカテゴライズされた人々に多く信仰されている)の影響が見て取れた。私はかつて原住民社会の祭祀の場があった場所に漢民族が建てた廟、また再建された原住民族シラヤ族の祭祀の場(公廨)を訪問してそうした事例を見た。民俗文化が混交することを、消失と解釈することには飛躍がある。台湾原住民シラヤ族の住む地域で見られる、漢式の廟の中にあるブタの頭骨やビンロウ、鏡といった阿立祖信仰の要素は、むしろ漢化の中にも原住民の存在が確かにあることの文化的エビデンス(証拠)と言えるのではないか。
台湾のように民族的・文化的に多様な国では、特定の文化的伝統を尊重することと同時に、混ざり合った文化形態の中に残る特定の文化を見逃さないこともまた肝要なのではないかと思った。この気づきは私が訪問と撮影をする中での思考の転換点となった。それは文化の中から「本物」を探そうとする悪癖を、一時的にでも脇に置き、文化の複雑さをそのままに捉えるということだ。

竹内公太による映像レポート: 『1895年からの残響(Echoes from 1895 ) 』2025, video(54min 21sec)(オープンスタジオでの展示風景)
台湾で1895年から1945年にかけての日本侵攻時に犠牲となった民間人や義勇兵を祀る廟や追悼の場を撮影した映像。

台湾・台北市の石碑や路上に書かれた「忠」の文字を撮影した映像を用いたインスタレーション。
台湾の民間信仰において「忠義」は権力への服従ではなく、地域共同体への道徳的忠節を意味する。しかし日本統治期および白色テロ期には、この「忠」という語がそれぞれ異なる形で国家イデオロギーに取り込まれ、国家への忠誠を強調する装置として利用された歴史がある。台湾周辺を巡る中国・日本の政治的緊張が高まる報道を聞きながら、竹内は「人々の〈忠〉という概念が盗まれる」という空想を抱き、映像インスタレーションとして構成した。

オープンスタジオでのトークセッション《進駐研究與創作分享講座》の様子。2025年12月4日國立臺北藝術大學 關渡美術館1又1/2空間にて。
Profile

竹内 公太
Kota Takeuchi
(1982生, 日本)竹内公太は日本を拠点に活動するアーティスト。石碑や映画館などの地域の歴史の痕跡を題材にしたインスタレーションを発表。近年は、第二次世界大戦中に太平洋を横断した風船爆弾の歴史に関する日米のアーカイブや現地調査から、一連の作品を制作している。
- Participants
- Kota Takeuchi
- Date
- 2026.04.30