2026.04.20

    滞在報告会 TEA+ vol.3 Party with イェ・シンジュウ、竹内公太

    2025年12月17日に東京藝術大学上野キャンパス国際交流棟3階のコミュニティサロンでTEA+の第3期派遣/招聘者による活動報告会が行われた。


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    竹内公太のプレゼンテーション


    開催概要

    日時:2025年12月17日(水) 18:00~19:30

    場所:東京藝術大学 上野校地 国際交流棟3階 コミュニティサロン

    登壇者:竹内公太、イェ・シンジュウ

    開催言語:日本語、中国語、英語


    竹内公太、イェ・シンジュウはそれぞれアーティスト、キュレーター/研究者と実践方法が異なるものの、共通点として「映像」がある。竹内はリサーチの成果を映像作品に、シンジュウは社会における映像の動向を対象にリサーチを行った。


    死者を祀ると同時にコミュニティを支える廟文化


    竹内公太は地域の歴史の痕跡を題材にした作品を発表しているアーティストだ。近年は第二次世界大戦に関連する調査を行い、インスタレーション作品を制作することが多い。今回のプログラムでも「日本による侵略が記録される場所で、地域に根差した民間習俗を調査すること」を調査目的に掲げていた。


    報告会では早速、制作した映像を見せてくれた。《映像レポート:1895年からの残響》には、竹内が足を運んだ「廟」(死者を祀る施設)や追悼の地が収められている。1895年に開始された日本による侵攻以降、犠牲となった民間人や義勇兵が祀られた場所だ。固定された三脚から、しかと見つめるような眼差しで撮られた映像は竹内によって「映像レポート」と称されている。

    「侵攻によって残された日本の文化的な痕跡を探すのではなく、あくまでも台湾の人たちが連綿と生活を続けた結果、文化的に残ったものを探すというつもりで訪れました」

    と竹内は注釈を加えた。


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    ビデオレポート: 『1895年からの残響 (Echoes from 1895)』より。南庄國中萬善爺義塚(苗栗県南庄郷)


    日本軍に敗れ亡くなった戦士が祀られている廟は多い。渓口郷(Wanshangon)の廟には19世紀になって根づいた、身寄りのない死者や不幸な事故などで亡くなった死者を祀る形式がみられる。これは日本でいう「無縁仏」と似たもので、日本軍の侵略が記録される地域や、義勇軍の抵抗があったとわかっている地域に多いのだそうだ。「無縁仏」の文化が日本軍により伝来したのではなく、「それほど多くの人が一度に亡くなり、そのように祀るしかなかった」(竹内)と考えられる。


    魂を祀るための静謐な場所かと思えば、廟の内部で地域の人が茶会を開くこともあるらしい。

    「私もお呼ばれして、お茶を楽しんだんですけれども」

    と竹内は語った。一部の廟は公民館のようにコミュニティを支える役割も持つようだ。


    これらの廟文化は、漢民族の文化が台湾で発展を遂げたものだ。竹内は「台湾原住民が暮らす地域における日本軍の影響」も気にかけていたため、原住民が多く暮らす地でも文化の継承事例をリサーチした。日本軍による侵略は原住民にも大きな被害を出し、それを示すような祠や塚が確認できた。しかし、これらの祠や塚の文化も漢民族がやってきて発展したものではないかと考えた。


    本物を探すのではなく、民族や時代が混交したあり様をありのままに見る


    竹内はこのころからある違和感を抱く。それが決定的となった機会として、1930年に起きた抗日蜂起について調査したときのことを話した。抗日蜂起を記念する莫那魯道紀念公園は追悼の地として知られる。文字が刻まれた門は漢民族の文化であり、英雄として称えられた蜂起の主導者の銅像が公園内に設置されている。

    「塚も公園も“昔からある原住民固有の文化”というには無理があるように思います。特にこの公園に関しては、公園設立の背景となったイデオロギーにも注意すべき、という指摘もありました。そこで、私は自分が設定した当初のテーマには無理があるとわかったんです」


    竹内の違和感は、「“原住民の文化”が存在する、と考えていた自身の先入観」に起因していた。「日本文化の痕跡ではなく、台湾の人たちが連綿と生活を続けた結果、文化的に残ったものを探す」という当初の目的には、暗黙の前提が含まれている。それは「文化が存在として非常に強固である」という前提だ。ためしに竹内は、原住民の持つ魂や霊魂についての考え方について学んでみたそうだ。すると、近現代にみられる多数の犠牲者を追悼する文化自体、原住民の追悼文化と完全には重ならない。日本軍の侵略についても、調べるほど、抗日蜂起のあと部族そのものが消失しかねない状態まで追い込んだという事態の重さを思い知ることとなった。文化の担い手がそれほどの危機にさらされ、どうして「絶対的な文化」を信じることができようか。そこでリサーチのプランを明確に切り替えることにした。


    「文化のなかに“本物”とか“純粋なもの”を見つけようとするのではなくて、民族・時代が混交した様態をありのままにみようとする視点が重要で必要だ、とようやく理解できました。そのように考え直して、原住民の方々の多大な犠牲を引き継ぐ場所を訪問しました」


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    ビデオレポート: 『1895年からの残響 (Echoes from 1895)』より。『二つの花岡山』よりスクレダン(南投県仁愛郷)


    台北にもどった竹内はリサーチした成果を元に作品を制作し、オープンスタジオを行った。最終的に、《映像レポート:1895年からの残響》に加え《二つの花岡山》、7モニターのマルチチャンネルインスタレーション《忠泥棒》が制作された。《忠泥棒》という興味をそそるタイトルの作品は、「忠義」をテーマにしている。「忠義」とは台湾社会のなかで、もともとは市井の人々を守る道徳的規範を指し示す言葉だった。それが「為政者への忠誠心」という意味へと変化した時期に焦点を当て、「人々から概念が盗まれてしまう」という発想で作品を構成したという。


    レジデンス期間中、内閣総理大臣の発言をきっかけに、中国と日本の国際的緊張が高まったこともリサーチや作品制作に影響した、と竹内は話す。

    「いい意味でタフな環境でした。固かった私の頭が少し柔らかくなっているといいなと思います。アジアの他の地域でも日本による侵略の文化的な痕跡を探ってみたいです」

    と今後の展望を共有し、トークを締め括った。


    「不純な概念」としてのビデオ・ドキュメンテーション


    一方、シンジュウは、このTEA+プログラムの特異性について言及するところからトークを始めた。

    「TEA+は、研究者を受け入れ対象としている既存のレジデンスプログラムとかなり異なっていたと思う。アーティスト・イン・レジデンスと招聘研究員としての調査のあいだに位置するような、新しい感覚がありました」

    研究者、キュレーター、博士学生。多くの肩書を持つシンジュウが1年目のTEA+で特異な参加者だったことはたしかだ。シンジュウは滞在期間中、博士論文のテーマ「アートのビデオ・ドキュメンテーション」に関連する資料を読むだけでなく、日本に住む人物に会いに行って話を聞けたことがよかった、と話す。


    序盤のスライドはとにかく滞在期間を有効活用しようと試みたと思われるシンジュウの写真であふれていた。数多くの展覧会のポスターの前で撮った写真をみると、博物館や美術館が密集する上野に滞在するメリットをひしひしと感じた。ユニークだったのは、部屋で買った食材を広げている写真だ。

    「スーパーでちょっと気になった食材を買ってみて、好きになったものはリピート購入したりもしたいんですが、忙しすぎて開ける暇もないままになってしまったり……」

    とリサーチ以外に、長期滞在ならではの楽しみがあったことを教えてくれた。


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    イェ・シンジュウのプレゼンテーション


    シンジュウは博士論文の執筆を通して「アートのビデオ・ドキュメンテーション」という概念を発展させようとしている。これは「アートをビデオによって記録する行為」を指す。1990年代に入ると、台湾では持ち運び可能な撮影機材の一般化や、白色テロ、選挙形態の変更など政治的要因が記録活動を後押しした。社会運動をなんらかの形で保存する必要性に駆られた時代性と、撮影・記録技術の発展がビデオ・ドキュメンテーションの背景にある。

    「ビデオは芸術として撮られることもあれば、公衆のために撮られることもあります。アクティビズムの意図も含まれるといえるでしょう。だから研究で私は『ビデオ・ドキュメンテーション』が、純粋な『ビデオアート』でもなく、『ドキュメンタリー』でもない……『不純な概念』であることにしばしば向き合っています」


    日本を代表する、ビデオを用いたアーティストとの邂逅


    滞在の目的は「日本におけるビデオを用いた芸術の記録について調査すること」。文字通り日本中を飛び回り、名古屋、金沢、京都、横浜を訪れた。


    まず念願叶って、八谷和彦にインタビューした。八谷は1990年代始めに「ビデオで雑誌をつくる」をコンセプトに「SMTV」の活動を開始したアーティストだ。友人にインタビューを行ったビデオテープを出版し、テープを手にした人間が各々映像を視聴することを可能にした、いわばアナログな個人TV放送局を運営していたこともある。これは1998年に台湾のET@Tが始めた、インターネットテレビの活動に非常に似ている、とシンジュウは述べた。しかし、彼女にとって1990年代の日本ですでに繊細な録画・再生技術が手軽に利用できたことは衝撃だったという。

    「ビデオ・ウォークマンのような機器が1980年代の終わりにSonyによって発売されていた、ということは、1990年代には撮影者がテープに録画したものをAM・FMの電波に載せたり、機器を持ってその場で人の話を録画したりできていた、ということです」(シンジュウ)


    「『SMTV』はビデオ・ドキュメンテーションの好例といえる」と話したシンジュウは、次に、アーティストの岸本康にも会った。


    現在Ufer! Art Documentary会社の代表を務めている岸本は、90年代には京都のアートシーンを追いかけ、「Art ToDay」という全29エピソードを1992年から1998年まで撮影した。シンジュウが注目したのは、岸本らが90年代から「Art ToDay」と並行して、長期間の取材をもとにしたドキュメンタリーの制作を始めていたことだ。人の一生涯を記録するような形で撮られたドキュメンタリー映像は、後の2004年や2016年に公開されている。これは同じ90年代、台湾でのビデオ・ドキュメンテーションの実践が有機的かつ即興的であったことと比べると異質だとシンジュウは述べる。


    「長期間のドキュメンタリーを1990年代の台湾で撮影することはとても難しかったんです。どうしても撮る人間と撮られる人間がある程度親しい間柄でなければ、映像に収められない。つまり台湾では『ディレクター』が本当に役割の意味で『ディレクター』であったかも怪しい。しかし日本では技術的な発展もあり90年代の時点ですでに、ビデオや撮影を巡る制作ネットワークが整備されていた。このことが、役職としての『ディレクター』を成立させ、被写体との関係性構築に一役買ったと考えてよいでしょう」


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    イェ・シンジュウのプレゼンテーション


    話を聞いた関係者に「日本と台湾では人々がカメラを持ち歩いた年代が30年も異なる」と指摘を受けたそうだ。最後にシンジュウは「今後もビデオによるドキュメンテーションが、どのように保存されアクセスされ、配信されるか注視し、現代における歴史形成にどのように役だったかを検証していきたい」と述べた。


    なぜ90年代に着目したか


    質問コーナーでは、竹内からシンジュウに対し質問が投げかけられた。

    「90年代のドキュメンタリーに注目したのはなぜですか? やはり技術的発展の観点でみて特異だからでしょうか?」

    シンジュウは、少し考えながら、

    「撮影行為そのものが発展途上だったから、というほうが近いです。八谷さんでさえ撮ってどうするか、十分に計画性を持っていたわけではなく、むしろあまり考えていなかったんですよね。でも強いモチベーションによって撮り続けた。当時、映像制作を行っていた人間は、むしろ多くが将来の公開なんて考えずに純粋に撮ることしか考えていなかったんです。そういう意識で映像を撮っていることが、90年代に注目する意味かなと思います」

    と答える。竹内は自らがレジデンスのあいだテクノロジーに大きく頼った経験から、シンジュウがビデオ技術の発展に目を向けていることに興味を抱いたようだった。

    「意外と昔の話なんだけど、ぜんぜん昔の話を聞いてる感じでもなかったな、って。それがすごいおもしろかったです」(竹内)


    ここで、GAの毛利嘉孝教授がコメントした。

    「僕はちょうどここらへん(八谷さんが居合わせた活動)に参加してました。当時、カメラに映らないように頑張っていましたね。『SMTV』自体がその前にあったいくつかのテレビの実験に対する応答だったんですよ。ナム・ジュンパイクのプロジェクトや、浅田彰の『TV evolution』があり、『ラディカルTV』っていうテレビユニットがあって。テレビをキーワードにしたマスのプロジェクトに対する、マイクロポリティクスをやろうとしていたんだ、といまなら思うんですよね。当時はあまりわからなかったけど」(毛利)

    新しく登場したテレビという大衆向けメディアを利用し、大きなスケールで実践を行うアーティストを引き合いにすることで、個人にリーチしようとした八谷の特徴がよくわかる。


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    来場者とのディスカッション


    「八谷さんは別にそのときはまだ現在のようなアーティストとしての立場を確立してはいなくて、カメラをもってオープニングにめっちゃやってくる人って感じだったんです。彼の映像独特の緊張感でもある、撮影なんかしちゃって『まずいんじゃないのか』みたいな空気が映りこんでいるところもおもしろいよね」(毛利)


    思わぬ「当時を知る人」が観客席のなかにいたことで、シンジュウのリサーチが立体的に浮かび上がって伝わってきた。


    アートが先か、リサーチが先か


    映像という共通の要素を巡って竹内とシンジュウはそれぞれ、リサーチ・ベースド・アートとアート・ベースド・リサーチの手法を見せてくれた。彼らの話を聞いてみると、一口に「アートのためのリサーチ」といっても、「アート」と「リサーチ」のどちらが先立つかによって、アウトプットが大きく異なることがよくわかった。竹内のように現地を詳細に調査した結果を、自由な解釈が可能な「作品」という形態に落とし込む方法。シンジュウのようにアートのなかに社会背景や時代変化を捉え、「論文を書く」方法。どちらも受け手の私たちに「他者を知る方法や態度が多様であること」を指し示すのに変わりはないが、「誰に、どのように、伝えたいか/経験してほしいか」という目的によって最適な方法が選ばれているのがよくわかる組み合わせだったと言える。


    それはそもそも「人がどのように経験するか」という命題を避けられない「アート」という領域に固有の現象だと思えた。この「経験」は「受け手の経験」に限らない。よくよく考えれば、アートについて発信する側も、さまざまな存在が混ざり合う「アート」にやはり「経験」を伴って介入している。竹内やシンジュウが行った報告は、まさにその「経験」の記録だったのではないだろうか。


    TEA+に参加した面々の活動を振り返ると、研究にしろ作品制作にしろ、アートを媒介にして多様なアウトプットがありうることが示唆される。アーティスト・イン・レジデンスの役割や可能性について改めて問い直すよい機会になった。(谷口)


    Profile

    竹内公太

    竹内 公太

    Kota Takeuchi

    (1982生, 日本)竹内公太は日本を拠点に活動するアーティスト。石碑や映画館などの地域の歴史の痕跡を題材にしたインスタレーションを発表。近年は、第二次世界大戦中に太平洋を横断した風船爆弾の歴史に関する日米のアーカイブや現地調査から、一連の作品を制作している。

    Participants
    Kota Takeuchi
    Date
    2026.04.20

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