2026.04.20

散らかす勇気|北條知子

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パフォーマンス「Whispered Screaming」。2025年。©Anna Lugmeier 


私は、アーティストとして音を用いた作品の制作をしており、フリーランスとして国内外で活動後、現在は大学に教員として所属しながら研究・制作活動を続けている。大学という制度の内外を経験してきた者として、そして必ずしも相性が良いとは言えない学術研究と芸術創作という二つの領域のあいだで活動してきた者として、共通していると感じることがいくつかある。そのうちの一つが、意識的にものごとを「散らかす」ことの必要性である。大学が行うアーティスト・イン・レジデンスの取り組みを考える上で、「未整理の、散らかった状態をあえて保持すること」が持つ意味について考えてみたい。


分析から溢れるもの


大学における学術研究は、整理整頓に喩えられる。研究対象を設定し、その対象をどう調査するかを規定し、場合によっては実験を実施し、データの収集・分析方法を設定し、それに沿って分析・整理・考察し、その結果を理解可能な、わかりやすい形にまとめていく。たとえば音楽の研究であれば、和声進行や旋律構造、リズムや歌詞の内容といった要素を細かく分析することで、作品の特徴や背景を説明することができる。こうした方法は、対象を客観的に捉え、わかりやすい言葉や数値によって伝えるために不可欠であり、研究としてきわめて正当な営みである。このような地道な積み重ねによって知は積み上げられ、新たな発見や知見が見出されてきた。


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Memu Earth Labのリサーチリトリート(北海道大樹町)でのリサーチ風景。先住民族の集落ホロカヤントーにて。2021年。撮影:Emiko Miura


その一方で、分析によって明らかになるものが増えるほど、そこからこぼれ落ちていくものの存在もまた意識されるようになる。音を聴いたときに感じる微妙な違和感や、説明することのできない引力のようなもの、あるいはその場に身を置いたときの空気の変化のような感覚は、分析の対象として扱うことが難しい。たとえば、中国雲南省の少数民族であるナシ族の老婆による即興的な唄は、音程や発声の不安定性、声質などの拙さがある。それでも圧倒的に惹きつけられるのは、音程の揺れや声の掠れが長い年月を想起させられるためなのか、もしくは唄の内容が、ナシ族の文化であるトンパ文字で書かれた貴重な経典が、文化大革命の名の下に焼却されてしまったことに対する嘆きだからなのか、はたまた少数民族という希少性ゆえにそのように感じるのか。これらはしばしば主観的で、再現不可能であり、言葉に置き換えた瞬間に失われてしまうような性質を持っている。制作や調査の実践においては、そうした説明し難い思考や感覚が重要な役割を果たしているのではないだろうか。


自分を「聴く」という実践


きれいにまとまることと、経験の広がりが保たれることとは、必ずしも一致しない。とりわけリサーチベースの実践では、文脈を他者に共有するため言葉が不可欠になるが、文脈を説明しようとすればするほど、作品が本来持ち得たはずの皮膚感覚が言葉によって囲い込まれていくように感じられることもある。それは、説明のために導入された言葉が、かえって経験の広がりを断ち切ってしまう瞬間である。言葉で説明できないことの存在を言葉で示そうとする時、作品との繊細なバランスが崩れてしまうこともある。もちろん、アートに許された「説明不足」に甘えて曖昧なままにしておくことを推奨しているわけではない。言葉にならないものに向き合いながら、それでもなお各々の言語で伝えようと試みること、その葛藤の中に制作を通した思考があるように思われる。


大学におけるアートの制作や調査は、こうした扱いにくい領域に向き合う実践でもある。分析によって把握できるものだけではなく、分析の過程で抜け落ちてしまうものに注意を向けることが求められる。誰かの言葉を通して語られたことを、自分自身の身体を通して確かめてみること。そこで何が感じられたのかを考えてみること。それが社会にとって、学問にとって一体何になるかと問われても、口篭ったり、言い訳めいたことしか言えないかもしれない。しかし、そのように言葉に詰まる瞬間にこそ、まだ整理されていない思考が現れているのではないかと思う。無理やり大義名分的な何かに接続するのではなく、思い描いていたものと現実との乖離や戸惑い、散らかった思考を受け入れてみること。それは自分を聴くということである。


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国際芸術センター青森でのレジデンス中のリサーチ風景。2021年。©️Tomoko Hojo


アメリカ人作曲家のポーリン・オリヴェロスの提唱したDeep Listeningという概念において、Listening(聴くこと)は、単に物理的に聞こえる環境音に耳を澄ませるだけではなく、他人の音、ひいては自分自身の音や考え、記憶、想像の音を聴くことを意味する。単に外だけに意識をむけるのではなく、それを知覚する自分自身が本当に感知しているものは何かを知ること。自分を規定している自分の中の常識を自覚すること。そしてこれまで聞こえなかった囁きに耳を傾け、対話をはじめること。そのプロセスなくして、他者の心を動かしたり、社会に働きかけたりすることは難しいのではないだろうか。


表現の余白を許容する場としての大学の可能性


散らかすこと、まとめること、それを再び壊し、絡まり合った塊を一つずつほどき、新たなものに結びつけてみること。それは時にして勇気のいる行為だ。規則や常識を破ることがアーティストとしての美徳かつ目的であると言う気はもちろんないが、そこに囚われすぎると作品や思考がどんどん小さく、安全志向で、均質かつ予測可能なものになっていってしまう。本音と建前を使い分けることが必要とされる社会の中で、アートの場ではそれらを一時的に手放すことが許されているように思われている(あるいは、そう見せかけられている)。しかしそのかりそめの自由を謳歌することなく、求められたものへと自ずと吸い込まれていくことも少なくない。それで出来上がったものは、アートのかたちをした別の何かなのかもしれない。

私自身もまた、制作の過程で生じた混乱や矛盾を、そのままの形で提示することにためらいを覚えることが多い。時間の限られたアーティスト・イン・レジデンスで、期待されるような目に見える成果を出すために、新しくうまれたアイデアの芽を摘み取ってしまったこともある。だからこそ、制作や調査においては、すぐに収束させようとする力に抗い、未整理の状態を一定のあいだ保ち続けることが必要になるのではないかと思う。それは単に未完成の状態を肯定することではなく、思考が変化し続ける余白を確保することでもある。アートの制作や調査とは、あらかじめ定められた結論に到達するための過程というよりも、むしろ自分自身の前提が揺らいでいく過程でもあるのだ。


未整理の状態は、思考が新しい方向へと開かれていく契機とも言えるかもしれない。大学の中に制作や調査の実践の場があることの意味は、こうした収束しきらない思考が一定の時間保たれることにあるのではないだろうか。自分を規定する感覚を知ること、直感を信じること、そして同時にそれを疑い続けること。その往復のなかでしか見えてこない問いがある。知を整理し伝達することが大学の重要な役割であるならば、同時に、まだ形にならない問いが生まれる余地を残しておくこともまた不可欠なのではないだろうか。散らかす勇気とは、問いが問いのままであり続ける余白を守ることなのかもしれない。(北條)


プロフィール:

北條知子(ほうじょう・ともこ)

実験的な音とパフォーマンスの領域を横断して活動するアーティスト。近年は、歴史的に沈黙させられてきた(女性の)声を可聴化することをテーマに、国内外でプロジェクトを展開している。現在、九州大学大学院芸術工学研究院音響設計部門助教。

Profile

北條知子

Tomoko Hojo

Participants
Tomoko Hojo
Date
2026.04.20

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